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本書『母なる自然のおっぱい』は、人間と自然との関係を、静かに、しかし深く見つめ直すエッセイ集である。著者は、自然を単なる「対象」や「背景」としてではなく、母のように包み込み、育み、与えてくれる存在として捉えている。そして、その母を、我々人間はいつしかむさぼり、搾取し、気づけば合成品で満たされた哺乳瓶に不満を鳴らす存在になってしまったことを、やさしく、しかし鋭く問いかける。 本書では、アカシアの木、ドングリ、ハイイロチョッキリ、あるいは森の中の動物たちの営みといった具体的な情景を通じて、読者を自然の深い呼吸のなかへと誘う。木々に宿る命、風に揺れる葉、枝を渡るリスの姿──そうした日々の光景に、宇宙の始原から続く時間の厚みを感じさせる。植物が生み出す栄養を「分けてもらう」ことに後ろめたさを覚えながらも、それを消化し、生きながらえる動物の姿に、人間としての本能と良心が交錯する。 また、狩猟民の倫理や、冒険という概念の変容、そして科学技術と生態系の関係といったテーマも取り上げられ、自然と文明との繊細なバランスが語られる。自然を愛でるとはどういうことか。自然の声を聴くとは何か。単なる讃歌や警告を超えて、本書は、われわれが自然の一部であるという、当たり前でいて見失いがちな事実を、やわらかく、そして力強く示す。 人間もまた、森の中を走り、空を見上げ、枝の影に身をひそめる小さな生き物の一つにすぎない。その視点に立ち戻るとき、われわれはようやく、生きるとは何かを学び直すことができるのだろう。ページをめくるごとに、読者はやさしいまなざしとともに、自然の懐へと還っていくような感覚を覚える。静謐で、透明感あふれる一冊である。

Price¥2,200
出版情報実業之日本社池澤 夏樹

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